「雹留山(ひょうどめやま)」への想いを綴った文章に感動

 

雹留山

※この文章はかつてほかのブログに書いていたものをこちらに移動して、一部書き直しをしています。

世の中が新型コロナウイルスに蔓延される直前の2020年2月ごろ、「多摩100山」を制覇すべく訪れた山のひとつに「雹留山(ひょうどめやま)」があった。この「多摩100山」は奥多摩の方に行けばガチな山々もあるが、中には市街地にある公園の中のピークみたいなおよそ山っぽくないところまである。低山歴10年もあると気が付いたら100山のうちの80以上は踏破していて、ヤマレコでリストが出来たことからコンプリートしたいという欲が出てきて挑戦している。

雹留山について

さて、本題に入って雹留山のことだ。ここは標高270mほどの低山で、正直わざわざ行くほどの山ではないし、多摩100山を狙っていなければその存在すら知らなかっただろうし、ここにハイキングでやってくる奇特な人たちもいないと思う。

なぜなら、すぐそばには広大なゴルフ場があり、それに沿って舗装されていない広めな道が走っており、道を挟んで企業の管理用地だったりサマーランドの敷地だったりと、とてもじゃないが山に来た気分にはなれない。

雹留山

入り口には柵があるが、車が通れるぐらいの道

雹留山

道路沿いにある柵の向こうは東京サマーランドの敷地内

そんな雹留山を目指して歩いていたら唐突に出てきた小さな道標。地形図ではもうちょい先のような気がするが・・。そしてこの道標の下にはある文章が貼ってあった。それがこれである。

雹留山

小さな道標

雹留山

道標の下に立っている文章

全文転記しておく。

雹止山

幾度かこの周辺を散策しましたが、昨年秋六十数年ぶりに雹止山が判りました。昔の風景を覚えている私には夢のようでした。雹止山のことは子供の頃父親に教えられておりました。昔から農家では山林は田畑と同様、日常生活とは切り離せない存在で、樹木は建造物や燃料に、落ち葉は田畑の堆肥にと農業を営む上に置いて重要な役割を果たしておりました。この地域の農家では毎年一月八日を山の神の日と定め、お神酒等を備え山の恵に感謝し、そして山の安全をお祈りし、山仕事は休み、山にも一緒に休養させる習慣が有りました。一月八日には父親の代わりに、お酒お米お灯明を供え、お祈りしたことがありました。少年青年時代のお社は本当に小さいお宮様で、道脇にポツンと建っておりました。それが現在ではこのような立派なお宮様に生まれ変わり、益々感動した次第です。

平成二十一年五月吉日
あきる野市在住 大正生まれの男

これを読んで思わず自分も感動してしまった。

この大正生まれの方は、若かりし頃の記憶をもとに雹留山にもう一度来ようと何度か試みたに違いない。しかしすぐには見つけられず、何度目かにようやくたどり着くことができたと読み取れる。

なぜこの低山を見つけることができなかったのか。大正生まれとのことなので恐らく昭和初期から戦前の間だろうか、その頃の雹留山はちゃんとした「山」だったはずで、麓からそれなりに山道を登り、「山の神の日」にお供えをしていたのだろうと思われる。

しかし60年の年月を経て、ゴルフ場ができていたり道路が作られていたりと、かつての山は切り崩されてその姿は変わってしまった。だから頂上の位置もすぐには分からなかったのだろう。

変わり果てた地形をくまなく探すことで、ようやくかつてお供えをしていていた社を見つけたのだろう。そんな喜びがこの文章からは読み取れる。いまの山の姿に落胆することなく、再び訪れることができた喜びを感じられる文章にとてつもなく感銘を受けてしまい、その場で3回も読んでしまった。

雹留山

ここから奥に入ったところに山頂があるなんて、普通は気が付かない。

雹留山

かろうじて山名を示す表示がある

雹留山

これが生まれ変わったお社なのだろうか

平成21年に書かれた文章なので、その時点でこの大正生まれの方は80歳前後だっただろう。もしかしたらすでにご存命ではないかもしれないが、いまもこの人の思い出はこうして道沿いに掲げられている。これからも朽ちることなくずっと残っていてほしいものだ。

雹留山(ひょうどめやま)

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